唐突に彼が唇を押し付けてきた。驚いて声をあげる僕を無視して、彼は僕の躯に唇を這わせていった。
「わっ、こら、お菓子なんて何も持ってないってば」
圧し掛かる躯を押し退けようとするけれど、彼はひ弱そうな外見とは掛け離れた怪力の持ち主なのでうまくいかない。ハッハッ、と野生動物じみた荒い息遣いが耳のとても近くで聞こえて、僕は思わず目を瞑った。彼はその目蓋の上にさえも唇を寄せてきた。一体どうしたというのだろう。まさか発情期でもあるまいに。
一瞬、攻撃されるのかと思ったけれど、彼が唇を寄せる以外には特に何もしようとしないので、ようやっと躯の力を抜いた。ゆっくりと息を吐いて目を開ける。圧し掛かられた体勢のまま、上半身を起こすと彼は僕の腹部に顔を寄せていた。
エル吉、と彼の名を呼ぶ。その声に反応して彼はぴくんと顔をあげた。穿たれた穴のように真っ黒な瞳が僕をじっと見つめた。
「急にどうしたんだい。具合でも悪いの?」
それだったらすぐに誰か、と云った僕の唇に彼のそれが押し当てられた。俊敏な動作だった。瞬きする僕に、彼はゆっくりと首を左右に振った。彼は喋ることこそできないが、大抵の人語は理解できるのだ。
僕はゆっくりと電話機に伸ばした手をひっこめた。その手にも彼の唇が落ちる。手の甲から中指の第二関節、指先まで彼はうやうやしく口吻けた。
「・・・具合が悪いんじゃないんだね?」
首を振る。
「じゃあどうしたの。お腹が空いた?」
ちょっと考えたあとに、首を振る。
「お菓子が食べたいんじゃないのか? ほら昨日松田さんが買ってきてくれたケーキとプリンがまだ冷蔵庫に入ってるけど・・・」
ばうー、と不機嫌そうに鳴いて、僕の手をぎゅっと握ってきた。彼は、僕が自分以外の名前を出すのを極端に嫌がるのだった。人見知りするのだろうか。松田さんは別に知らない相手でもないのに、と僕は思うのだけれど。
具合が悪いんでもない、お菓子が欲しいんでもない。じゃあ原因は何なのだろうか。さっきまでは機嫌良さそうにしていたのに。僕がソファでうたた寝をしていた間に何かあったのだろうか。伸し掛かられて、目を覚ました僕にはとんと理由が思い当たらなかった。
はあ、とちいさく溜息を吐くと、僕は彼の頬に手を伸ばした。頬を撫で、髪を梳いてやると、彼は気持ち良さそうに目を閉じた。
「・・・エル吉、どうしたんだい? 何があったの?」
髪を手ぐしで梳いてやりながら、やさしく問うと彼はソファの傍の床を指差した。そこにはさっきまで彼が読んでいた本がばらばらと散乱していた。
「あれがどうかしたの?」
彼は、髪を梳くのを止めた僕の手を名残惜しそうにちらりと見てから、ソファを離れ、一冊の本を抱えてもどってきた。ご丁寧に再び僕の上に跨ると、僕の手を自分から頭の上に載せた。苦笑しつつ頭を撫でてやると、ようやっと抱えていた本を僕に差し出してきた。大ぶりのそれらは彼の遊び道具かつ勉強道具だ。絵本やらカラー図鑑やらなぞなぞの本やら、昨日新しく送られてきたそれらの本を彼が熱心に読んでいたのを、僕は眠る前に見ていた。三日に一度ほどのペースで新しいものと交換される本は最初の頃よりかはずっとレベルが高いものだ。ひらがなのみの幼児向けの絵本から、今は漢字を含む小学生向けの本まで読めるようになった。スポンジのように知識を吸収してゆく様子を見るのは、教育係の僕としても嬉しい。
彼が差し出してきたのはカラフルな表紙の童話集だった。中にはいくつもの話が収められており、綺麗なカラー挿絵までついている。
僕がぱらぱらとページを捲っていると、彼はじれったそうに僕の手から本を奪い取ると、とあるページを開いて差し出してきた。
そこには、うつくしい姫君が茨の中で眠っている絵があった。
「・・・『眠り姫』?」
ばうー、と鳴くと、彼はその挿絵と僕を交互に指差した。
「え・・・僕?」
思わず呟くと、彼はこくこくと満足そうに頷いた。だけどやっぱり僕にはよく意味が判らずに目を瞬かせていると、彼が再び口吻けてきた。ちゅっ、と音を立てて唇を離して嬉しそうに笑う彼に、ピンときた。
「もしかして、僕のこと『眠り姫』に見立ててるのか・・・?」
喜色をたたえる彼の様子では正解のようだった。
どうやら眠ってしまった僕を、『眠り姫』の話通りにキスで起こそうとしたらしかった。ようやくそれが判ると、何だかどっと気が抜けて笑いがこみあげてきた。
「・・・ばかだなぁ、僕があのままずっと眠り続けるとでも思ったのか?」
彼は、ばうー、と哀しげに鳴くと、頭をすり寄せてきた。僕はそんな彼をそっと抱きしめてやった。
「・・・大丈夫だよ、エル吉。僕はお前を置いていったりなんかしないよ」
腕の中の温もりがとても愛おしかった。彼はこの世界でひとりぼっちなのだ。仲間のいない、この世界で僕だけが彼の傍にいてやれる。だったら僕はずっと彼の傍にいてやりたいと思った。
「大丈夫だよ・・・ずっと一緒だ」
そう云って口吻けてやると、彼はとても嬉しそうにしたので、僕は彼を裏切るまいと誓った。
・・・ずっとずっと、僕はお前の味方だよ。
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