神の名を呼べ


 月は気だるげに首を豪奢なソファに凭れかけさせた。やわらかなベルベッドの布地にからだを預けると、そっと目を閉じた。その一挙一動を、睫毛の震えさえも見逃すまいと執拗に注がれる視線を知りながらも、月はあたかもこの空間には自分以外存在しないかのように振る舞った。それは傍に仕える男の望むところでもあった。月を神と崇める男は、月が自分をまるで空気のように―――傍にあることが当然のように―――存在するかのように振る舞うを好むのだった。だがその癖、ことあるごとに、いっそ妄執的ともいえる熱を孕んだ視線を注いでくる男は僅かな月の感情の変化に敏感に反応した。

「・・・キラ、」と一瞬の逡巡ののち、男は彼の神の名を呼んだ。

 その声に月は目を閉じたまま、何だ、と答える。その声音に些かの不機嫌さを読み取った男は、また押し黙ってしまった。おそらく主に掛けるべき言葉を考えあぐねているのだろう。この、月におそろしく従順な男は月を穢すこと、月の機嫌を損なうことを最もおそれる節があった。目を閉じていても、その考えを月は手に取るように感じられた。

 月はそんな愚かしいまでに自分を崇拝する男の様子に僅かに口角をあげると、「魅上」と男の名を呼んだ。

「はい」と幾ばくかの不安の底に主が彼の名を呼んだことに対する悦びと自尊心を嗅ぎ取り、月は目を開けると、嫣然と微笑んだ。その笑みに恍惚とした表情を浮かべる魅上を視線で近くに呼び寄せると、魅上はその王座の元に膝を付け、こうべを垂れた。

「いいよ魅上、顔をあげて」

「・・・はい」

 肘掛けに乗せていた片手を無造作に魅上に突き出すと、彼はおそるおそるといった調子でその御手をそっと両手で包み込むようにした。そして月をちらと窺ったあと、その白皙の手に恭しく唇を落とした。手の甲、間接、そして爪先にと順々に口吻けを降らせてゆく様子を月は表情を変えずに見守っていた。なかば通過儀礼めいたその行為は魅上が月に求めたものであり、最初は戸惑った月だったが今では特に感想も覚えなかった。ただ冷えた指先に生温い他人の体温が触れるのは何だか不思議な気持ちがしていた。

 放っておけばいつまでもそれを続けていそうな魅上を指先を軽く引いて諌めると、実直なしもべはすぐさまその意図を汲み取った。

 その様子に月は目を細め、いいこだ、と幼子に云うように囁くと魅上の頬にその手を滑らせた。そっと上を向かせた顔は上気し、魅上は緊張と期待の入り混じった目で月を見たのだった。月は微笑むと、彼の前髪をそっとかきあげ、額に唇を落としてやった。

 ああ、キラ、私の神よ、と震える吐息で呟き、魅上はうっとりと瞳を閉じた。彼は自身の額に、頬に、神の吐息を感じて、背筋を震わせた。甘い吐息、麗しいかんばせ、細い指先、魅上が愛し慈しむ神のすべてが彼のすぐ傍にあった。まるで天上の楽園にいるかのような心持ちで魅上は何度も何度も神の名を呼び続けるのだった。






2005.11.14