図書館の話


・・・ああ、そう最近ね妙な夢を視るんだ。僕は何処かの図書館にいて、本を読んでいるんだ。もう夜中なんだけれど、僕はどうしても読みたい本があってそこに行ったんだ。夜間着の上におおきなブランケットを羽織って、裸足にスリッパでふかふかの絨毯の上を歩いていく。そこはもう深夜で、誰もいないから真っ暗なんだ。明かりは手に持っているランプひとつっきり。カラフルな細工がほどこされたステンドガラスがとてもきれいなランプだった。それを掲げて僕は背の高い棚の間を歩き回っている。そうしてやっと目当ての本を見つけるんだ。それは百科事典のようにおおきな真っ黒な表紙の本で、僕はそれを抱えて閲覧席まで戻る。その本を机の上に置いて開くと、あの、古書独特の黴臭いような匂いが僕の鼻をついた。そう、そんなことまではっきりと覚えている。僕はその本を捲くっていく。それには、ノートのように罫線が引かれた紙面にぎっしりとひとの名前が書いてあるんだ。僕はその名前を片っ端から覚えようとした。何故だろうね、どうしてそんなことをしようとしていたのかは判らない。けれどそのときはそうしなければならないと思ったんだ。それは僕の義務だと。決して忘れてはならないものなのだと。けれどページはめくってもめくっても終わらないんだ。本はいつまでもぎっしりとひとの名前で埋め尽くされていて、僕はだんだんと焦りを感じはじめてくる。僕はこの本に並んでいる名前たちの最後に、自分の名前を書き記さなければならなかった。けれどページはいつになっても終わりが見えないし、いつ夜が明けてしまうか判らない。どうしようもないくらい嫌になって、やめたいと思うんだけれど、それだけはできないんだ。僕はこれをやり遂げなくちゃならない。ページをめくる手を止めることはできない。だんだんと呼吸が苦しくなってくる。静まり返った空間にページをめくる音と僕の息遣いだけが響く。 そんなとき後ろで、ぺたり、と音がするんだ。僕は振り向かなかった。しばらくすると、そのぺたぺたという音は消えるんだけれど、それはただその音の主が大理石から絨毯の上、そう僕の方に近付いてきているだけなんだ。気配が僕の方にどんどんと迫ってくる。けれど僕はページをめくって名前を覚え続けるんだ。早くしなければ、早くしなければ。僕は焦る。自分の名前を書くのが間に合わなくなるかもしれない。そう思った途端、ランプの中の蝋燭がジジ、と音を立てるんだ。蝋燭はもはやいつ消えてもおかしくないくらいに小さくなってしまっていた。それに気付くと僕は唐突に眠気を感じるんだ。抗いがたいまでの強烈な眠気に襲われて目を開けていられなくなる。こんなところでこのまま眠ってはいけない、と思うんだけれど駄目なんだよ。僕は机に突っ伏して目蓋を閉じてしまった。閉じた目蓋の裏側でまたオレンジ色の炎が瞬いていた。眠ってはいけない、覚えなければ、記さなければ。僕は思うんだ。そうしてランプに手を伸ばす。けれどその手を誰かが掴むんだ。いけません、あなたはそんなことをしなくていい、あなたはただ眠ればいい、それだけです。誰かはそう云って、僕の肩から落ちたブランケットを掛け直してくれた。僕は夢うつつで誰かに云う。だめだよ、僕はやり遂げなければ。いいえ大丈夫です。だめ、だめだよ。では私があなたの代わりになりましょうか。だめ、それもだめだ。これは僕がやらなければならないんだ。僕がそう答えるとそのひとは笑った。僕の目蓋はとっくに落ちているんだけれど、それは判るんだ。そのひとが身じろぎするたびにふわりとお菓子のような甘い匂いが漂った。あなたはとても強情なひとだ。そう云ってそのひとは、僕の髪に触れた。すっと僕の前髪を指で梳くその感覚を僕は知っていると思った。けれどどうしても思い出せないんだ。あなたは誰?と問おうとしても言葉は眠気に溶かされてしまってどうしようもなかった。あなたはただ眠ればいい、とそのひとが呟くように繰り返した。僕は緩慢に首を振る。だめだよ、これはやらなくちゃならないんだ。僕にしかできないことなんだ。たとえ誰かが代わってくれようとしたってそんなのは欺瞞だ。僕は嘘なんか吐きたくない。ほんとうのことしか判りたくないし、知りたくないんだ! そう叫びたいのに言葉は端から溶けていってしまう。目蓋の裏で蝋燭の灯がまた瞬いた。さあ灯が消えます。早くお眠りなさい、戻れなくなってしまう。頬にひんやりとした感触があって、僕は目をゆっくりと開いた。誰かが僕の頬に手を伸ばしているのだ。影になってしまって顔が見えない。眠気で視界が滲む。いやだ、眠りたくない。声と共に思わず涙が零れた。どうしてですか、あなたはまだやらなければならないことがあるんでしょう? わかってる、わかってるよ。でもいやだよ、眠りたくなんかない。ずっとここにいたい。どうしてです? だって。だって向こうには、お前がいないんだ。頑是無い子どものように舌ったらずの口調で僕は泣いた。目の前にいるのが誰かは僕にはわからなかったけれど、ここで別れたらもう二度と彼と会うことはないだろうということだけはわかっていた。それはどうしようもなく僕の胸を打ったのだった。いやだいやだを繰り返す僕の瞳を彼の掌が覆った。いけませんよ、あなたはここにいるべきじゃないんです。・・・どうしても? ええ、どうしてもです。大丈夫、怖くなんてありません。目を閉じればいい、そしてお眠りなさい。眠っている間は何を恐れることもない。さぁ目を閉じて・・・・・・。彼の声が遠くなってゆく。下りた目蓋はもう開きそうになかった。熱を持った目蓋に彼のひんやりとした掌が触れるのが心地良かった。おやすみなさい月くん、そしてさようなら月くん。ああおやすみ、そしてさようなら竜崎。ジジ・・・ッと蝋燭の灯が音を立てて消えた。そして僕は眠り、目を覚ます。彼のいない世界に。
夢の話はこれでおしまい。




2005.04.19