行方不明の欠片たち
「―――どうかしたんですか?」 「え?」 月が驚いたように自身を見返すのに、Lはちいさく眉根を寄せた。 「気づいていないんですか?」 そういえば、とLは思い返す。以前から彼には虚空を見つめるくせがあった。それほど頻度はないのだが、ふとしたときに月は、虚空に視線を飛ばしていた―――まるですこし後ろを歩く友人を見遣るように。 「クセなんですか? そうしてよく何処かを見ているでしょう」 問うと、月はわずかに瞠目した後、ふっと弱々しく笑ってみせた。 「よく見てるんだな、竜崎。もしかして僕よりも僕のことに詳しいんじゃないか?」 そう冗談めかして笑う月にLは真顔で答える。 「あなたのことですから」 Lのその言葉に月はすっと笑いをおさめた。人工的に冷やされた空気に月の笑いが残響していた。 月は何かを云いかけるように口を開いたが、すこし逡巡してからまた口を閉じた。苦々しいものを嚥下するように口元をわずかに歪ませたまま、月は目線をふかふかの絨毯に落とした。ライトくん、とLが呼び、月の上に覆いかぶさった。座っていたソファーにそのまま押し倒される形になった月は黙って目を閉じる。Lの指が、唇が、舌が、月の上を這い回るのにも月は押し黙ったままだった。やわらかいソファーに全身を横たえた月の上に、四つん這いで獣のように覆いかぶさるLの存在にも気づいていないような仕草だった。Lが月の唇に口づけようとして、躯を動かすと、ソファーの前に置かれていた豪奢なつくりの机にぶつかり、机上のコーヒーカップがカチャンと硬質な音を立てて倒れた。中から零れたのは、Lのガムシロップが多量に入った紅茶だった。溶けきれなかったガムシロップをたくさん含んだ紅茶はどろどろと机を這って絨毯へ逃げようとする。汚れてしまうよ、と数センチも離れていない唇の下で月が呟く。月の吐息がLの唇にかかった。構いません、とLは囁き、月の唇に自分のそれを押しつけた。 「・・・最近ね、」 唇を離した後、唐突に月が云う。 「なにか・・・とても大事なものをどこかに置き去りにしてきてしまったような気になるんだ」 どうしてだろうね、僕はそんなことをした憶えはまったくないのに。どうしてだろう、でもすごく大切なものだったような気がするんだ。僕はいったい、何をなくしてしまったというんだろうね。 月は弱々しく微笑んだ。そうっと視線を下に落とす月をLは何も云わずに見つめていた。俯いた月は今にも泣き出しそうに見えた。・・・彼は泣くだろうか。Lは思う。唇を噛み締めるでもなく、ただ哀しそうに微笑む月はどうしようもなく儚かった。今にもさらさらと崩れていってしまいそうだと思う。彼のことをそんな風に感じるようになったのはいつからだったろう。今、Lの下で目蓋を震わせる月は漠然とだが、以前の彼と違うとLは感じていた。研ぎ澄まされた刃のように鋭利な視線を持っていた夜神月は少なくとも今ここにはいない。いるのは不安げな表情で目を閉じ震えるうつくしい、裕福な子どもだった。 氷上にひとり立っているような、危険や恐怖と紙一重のうつくしさと凶暴性を兼ね備えた彼は一体、何処へ姿を潜ませたのだろうか。もちろん今の月だって、冴えた頭脳も、正義を愛す心ももっている。けれど、けれど・・・それでも彼は変わったと思う。あの凶悪なまでのうつくしさを、強い眼差しを、Lは思い出す。こんなものじゃない。夜神月という人間はこんなものじゃなかった。心の奥底でもうひとりの自分が叫ぶ。馬鹿げている、とは思う。自分が今まで積み重ねてきたのはこんな直感的なものではなく、確かな証拠に基づく理論的なものだったはずだ。証拠を手繰ってゆけば、いつか必ず真実へ辿り着く。捜査とはそういうものだ。綿密な捜査、実証、検証、推理。数々の憶測をたて、真実を導き出す。そんな、階段を一段一段上ってゆくような連続的な動作でなくてはならない。 もし、夜神月がキラに操られていたという推理が正しいとすると、『今までの夜神月』は一体誰なのだろう。キラかそれとも夜神本人か。キラの意志が介在していたとしても、夜神月は夜神月でしかないのかもしれない。けれど、やはりあれはキラだったのだろうか。あの、うつくしく研磨された精神をもつ彼は。 Lはその記憶につよく刻まれている『夜神月』を思い出す。Lが今その腕に抱いているうつくしい存在は、透き通った宝石のような瞳でLを見上げた。竜崎?と幾ばくかの不安を孕んだような声で月はLを呼んだ。幼子が親に向けるようなそれはまっすぐLに向けられ、Lは恍惚感とともにわずかばかりの齟齬を感じる。いつから夜神はこんなにやわらかな部分をさらけ出すようになった? Lは自問する。月はこんな風に傷つけられやすく脆い部分を無防備に他人の前にさらすような人間だったろうか、と。 だがLは知る由もないことだが、月は本質的にはやはり他の子どもと変わるところのない子どもだったのだ。それがあの研磨されたうつくしさを持つようになったのは、ひとえに世間や、そしてLの所為と云ってもよかった。月の精神は世俗の中で傷つけられることを厭い、少しずつ頑なになっていったのだ。それは月の元を、あの黒衣の死神が訪れたあとになっては更に顕著になっていった。そうして脆い部分を奥にしまいこみ、硬質な宝石のようになった月を、Lの視線はますます研磨して、うつくしく磨きあげていったのだった。そして同時に月はLに対して明らかな憎悪を抱いていった。だが、その感情は月がキラであるからこそだったのか、わずかばかりの不可解さをのこし、デスノートの記憶と共に死神がもっていってしまった。 けれどLはそんなこと知りもしないし、また月でさえそのことは知らなかった。ただその事実はLに砂を噛むような歯がゆさと寂莫感を与えるのだった。 りゅうざき、と再び月が呼ぶ。その声には、さっきまでの幼さを含んだ声とは違う硬質さがあった。Lは月を組み敷いたままの体勢で、月の顔を見つめる。月の視線は揺らぐことなく、Lの視線と絡み合う。強い光を持つ月の瞳。この瞳の奥底に月はいったい何をひそませているのか。そんなLの思考を断ち切るかのように月が口を開く。ゆっくりと動く月の唇をLはじっと見つめた。 「お前が何を考えていても、何を思っていても、」 月はそこでゆっくりと瞳を閉じた。 「・・・僕はお前の望むものにはなれないよ、」 閉じられた瞳とは裏腹に、はっきりとした口調だった。お前の望むものにはなれない。月は云う。 Lは何も答えなかった。月はそんなLの態度を予想していたようだった。ゆっくりと唇で弧を描く。 「お前は僕がキラだと思っている、と云った。それは嘘だ。お前は僕がキラでないと気が済まないんだ」 そうだろう?と月は笑った。それには何処か嘲笑うような響きがあった。 月の唇は次々と言葉を紡いでゆく。きっと月はLの答えを求めてなんかいない。答えはとうに月の中にあった。 「僕がキラだと思ってるんじゃない。僕がキラだと思い込もうとしてるんだ。お前が執着してるのがキラか僕かは知らないけど、それは間違った執着だよ―――L、お前は間違ってる」 流河、でもなく竜崎、でもなく、月は探偵の名を呼んだ。 「妄執じみた思いに囚われていると何も見えなくなるよ。いい加減目を覚ませ。僕を積み重ねた証拠と推論の上で疑うのは判る。でもお前はおかしいよ。自分だって判っているんだろう? ここまで僕にこだわるのはおかしいと。でもお前はそれを認めたがらない」 エル、と月は囁くように名を呼ぶ。覆いかぶさる躯がわずかに揺れたのを感じて、月は微笑み、いっそう優しげな声を紡ぐ。 「お前は、駄々をこねる子どもと一緒だよ」 「―――黙れッ!」 お前に何が判る、とLは叫んだ。昂る感情のまま、月の喉元に両手をかけた。細い頸だった。締め上げる指の下で筋肉がうごくのを感じる。 「お前が何故そんなことを云う。お前はキラだ。それ以外の何者でもない。お前以外のキラなど私は認めない!」 「は、はっ・・・図星・・・か、L?」 頸を絞められたまま月が笑う。苦しげな息の下でも、月の瞳は揺るがなかった。それどころかいっそう強くその、光を孕んだ瞳でLを睨みつけてくる。 月の頸を締め上げるLの手を月が掴む。爪が皮膚に喰い込んだが、Lはそんなことに構わなかった。 くっと月が喉をのけぞらせる。苦しげに寄せられた眉の下で、目のふちが赤く染まっていた。きつく月の頸を締め上げる指のふちも赤く染まっている。咳き込みながらも月は一語一語を明瞭に告げる。 「・・・お前が、何を考えていても、何を思っていても、僕はキラじゃない」 その眦から涙が一粒滑り落ちた。水晶が溶け出したかのように透明なそれが月のすべらかな頬を伝うのをLはただ見つめていた。 「キラじゃないんだ」月の瞳はかすかに濡れたまま、静かにLを見据える。「でもお前は信じないね」 僕たちはきっと一生判り合えないんだろう、と囁くような月の声が冷えた空気の中を漂い、落ちた。 |
すっごい昔に書いたのを引っ張り出してきました。最終履歴を見るとなんと05年3月28日。
い、一年以上前ですよ・・・うわあ。文章の保存方法も文体も今とはだいぶ違います。
さっさとアップしろよという話なんですが・・・いま追加したのだって3行くらいだしね(えっ)。
この頃の月(キラ)観には自分でも驚かされます。そうかこんなふうに感じてたのかー。
そしてこの頃のほうが色々ちゃんと考えてたんじゃないかと思います・・・成長の兆しは何処へ・・・。
突如首絞めが入るのは、確かあの頃バイオレンスL月萌えだったんだと思います・・・懐かしい・・・(遠い目)。
2006.05.06