睡 蓮
―――知っていますか? 睡蓮の下には、きれいな子どもが埋まっているんですよ。
頭上から声が聞こえて、僕は振り返る。見上げると、そこにはひとりの男が立っていた。
男は、目の前にある沼を指差し、繰り返す。
「桜の木の下には死体が埋まっているというでしょう。睡蓮もそうなんですよ。あのうつくしい花の下には、きれいな子どもが埋まっているんです。暗い沼の中に沈んだうつくしい子どもの額から、睡蓮は花を咲かせるんです」
僕は思う。このひとは誰なんだろう。
この、僕に親しげに話しかけてくるひとを僕は知らない。あたりは暗くて、後ろに立つひとの顔は見えなかった。
学校の帰り道ですか? そのひとが訊く。僕が答えずにいると、そのひとはじっと僕の方を窺っているような気配を見せた。影になって見えないのに、はっきりとそう感じた。何か云わなくてはならないような気になり、僕は口を開く。
「・・・お父さんが、知らないひととは口をきいてはいけないって」
「そうですか。いいお父さんですね。私は知らないひとですが、口をきいてもいいんですか?」
そ知らぬ顔で告げる声に僕はすこし腹が立った。
「だって、あなたが僕に話しかけてきたんじゃないですか」
怒ったように振り向くと、背中のランドセルの中身が、かちゃん、と跳ねた。
そのひとは抑揚のない声で、ああそうでしたね、すみません、と云った。
僕は見覚えのない沼の前に立っている。樹脂のようなものでコーティングされた木の柵が、沼を囲っている。その沼はとても大きく、左右を見遣っても、先の方は闇に包まれていて何も見えなかった。
ひとりっきりで、ランドセルを背負ったままの僕はその沼の前に立ち竦んでいる。
けれど、気付くと僕の背後にはひとりのひとが立っていた。
そのひとは急に睡蓮の話をし出した。僕は不思議に思う。だって、この沼にはなにもない。見渡す限り、どろりとした沼の水があるだけなのに。けれど、そのひとが沼に伸ばした指先を追うと、沼にはいくつもの睡蓮の花が咲き誇っていた。いつの間にあれは咲いたんだろう。驚いて目を瞠ると、そのひとは尚も言葉を続ける。
「―――あなたはどうですか、」
えっ、と僕は聞き返す。
「なにがですか?」
「あなたはどうですか。睡蓮を、あの睡蓮をどう思いますか?」
ぼんやりと僕は沼に咲く、大輪の花を見た。淡く輝くようなそれらは、灰褐色の中によく映えていた。
きれいだと思います。沼の上にもあんなにきれいな花が咲くんですね。
僕がそう云うと、そのひとは頷いた。
―――そうですね。私もとてもきれいだと思います。あんなにきれいな花が咲くには、やっぱりきれいなものが必要なんですよ。桜は、下に埋まった死体から血を吸い取って、あんなにきれいなピンクの花を咲かせるんです。睡蓮は、下に埋まったきれいな子どものうつくしさを糧に咲くんですよ。
―――どうして子どもなんですか? きれいな子どもからしか睡蓮は咲かないの?
―――子どもがこの世でいちばん輪郭があやふやだからですよ。生まれて間もない子どもは、世界にまだあまり晒されていない。だから、まだ不安定なんです。何十年と生きるうちに、それはだんだんと安定してきて、人間を形づくります。つくられた人間は、もう植物が入り込めるようなすきまはない。だから睡蓮は、まだ不安定な、世界との境界が曖昧な子どもにしか根付けないんです。
―――どうやって睡蓮が生えるの?
―――冷たい沼に埋まるんです。深く、深く沈んで、そこで眠るんです。
僕とそのひとは再び沼に目を遣る。
この沼に咲く、睡蓮の下にも何人もの子どもが沈んでいるのだろうか。僕は考える。隣に立つ猫背のひとを見上げると、そのひとも長い前髪の下から睡蓮をじっと見ているようだった。
このひとは誰なんだろう。ずっと前から、僕はこのひとを知っているような気がするのに思い出せない。ほんとうに知らないのかもしれないけれど、どうにかして思い出さなくていけないような気がする。
―――僕からも、睡蓮は咲きますか?
別段意識しないうちに、僕はそう口に出していた。そのことに僕はすこし驚いた。
隣に立つひとがぴくりとからだを動かした。ゆっくりと僕の方を見遣るその表情は相変わらず窺えなかったけれども、その顔はひどく暗かった。僕はなんとなく嫌な気持ちになった。訊かなければよかった、と言葉を撤回しようとしたそのとき、
―――咲きますよ。あなたからは、誰よりも大きく、うつくしい花が咲くでしょう。けれど、
そのひとはそこですこし言葉を切った。静寂につつまれた辺りに、そのひとの息を吸う音だけが聞こえた。けれど? 僕は尋ねる。そのひとは再び顔を沼の方に向けた。
―――・・・そのためには、あの冷たく暗い泥の中にとても深く沈んでゆかなければならない。
そう呟くそのひとの横顔はやはり険しかった。
睡蓮はいくつも、沼の上にその花を咲かせている。
そのうつくしい花だけは、セピア色しかないあたりの風景から明らかに乖離されていた。
僕はその見知らぬひとと、ずっとそこに立ち尽くしていた。
* * * * *
―――・・・ライトくん、眠ってしまったんですか?
ぼんやりとした意識の上を言葉が滑ってゆく。声が水の底の僕に浸透してくる。誰? 僕を呼ぶこの声は誰のものだ? 躯がどろどろに溶けてしまったかのように動けない。泥のような僕をまたその声が揺さぶる。僕はゆっくりと目蓋を開く。滲んだようにぼやける視界に影が映る。それは意識の覚醒とともにその姿を現してきた。
「・・・ああ竜崎」意識とは別の部分で言葉が出ていた。「どうかしたのかい?」
相変わらず特徴的なその姿に僕は声をかける。竜崎は「すみません、起こしてしまいましたか」と頭を掻いた。謝らなくていいのに、と僕は思う。どうせこの男は悪いだなんてちっとも思ってなどいないのだから、形ばかりで謝罪の言葉を述べられたって癪に触るだけだ。・・・もう慣れたけれど。
いつの間にか僕はソファの上で寝てしまっていたようだった。迂闊だった、と内心舌打ちをしたくなった。この男の前に無防備な姿を晒すのは、何となくだけれどはばかられる。
「・・・それで?」上半身を起こしながら尋ねると、竜崎は「何ですか?」と白々しく首を傾げた。僕はそんな奴の態度にまた苛立ちを覚える。
「何ですか、はこっちの台詞だよ。何か用があったんじゃないのか?」
「・・・ああ、そのことですか」
「他に何があるって云うんだ」
「すみません。すっかりライトくんの機嫌を損ねてしまったようですね。ケーキでもいかがです?」
悪びれない竜崎の様子にすっかり脱力した。軽く溜息を吐いて、首を横に振る。
「いらないよ。機嫌も損ねてない」
「そうですか。それは良かった。・・・それはそうと、ライトくん」
「何?」
僕が聞き返すと、いえ、大したことではないのですが・・・と竜崎は珍しく歯切れの悪い態度を見せた。思わず眉を顰める。何だよ、そこまで云っておいてやめるのは失礼だろ。そう促がすと、竜崎はすこし居心地悪そうに身じろぎした後、言葉を続けた。
「・・・何の、夢をみていたのかと思いまして、」
夢? と僕は竜崎の言葉を反駁した。竜崎は相変わらずの姿勢で首をひょいと動かした。多分、肯定のしるしなのだろう。
僕は竜崎の言葉にすこし驚いた。ほんとうに竜崎はそんなことを気にしているのだろうか。それともあの、喫茶店でキラに関する質問を僕に浴びせたときのように、そこから何か真実を見つけだそうとでもしているのだろうか。
夢。僕は夢をみていた。それは確かだ。けれど思い出そうとすると、それはするりと手の内から逃げていってしまい、後にはぼやけた輪郭だけが残る。僕は暗いところにいた。そして誰かが傍に立っていた。あれは誰だったろう。幼いときの記憶だろうか。現実にあったことか、それとも脳が勝手に造りだした記憶か、それすらも判然としない。僕はその誰だか判らないひとと、二人っきりで立ち竦む。そうだ、沼があった。柵に囲まれた沼のほとりに僕とそのひとはいた。そして、そのひとが僕に話しかけてきた。僕は答える。何を話したのかは憶えていない。夢の中の僕らの唇が動いているのは判るのに、何と云っているのかは判らない。沼の中で何かがきらきらと光っていた。あれは、あれは―――・・・
「―――・・・くん、どうかしましたか。ライトくん?」
竜崎の言葉にはっと我に返る。すっかり思考の海に沈んでしまっていたようだった。
「・・・あ、いや。うん、ごめん竜崎、大丈夫だよ」
歯切れの悪い僕の言葉に今度は竜崎は眉を顰めた。
「・・・ほんとうに大丈夫ですか? 具合が悪いなら、奥で休んでくださっていいんですよ」
「平気だよ。それにそうしたら竜崎までついてくることになるだろう」
軽く腕を示して笑った。繋がれた鎖がかちゃりと音を立てる。
「私のことは気にしないで下さい。何処でも書類は読めますから」
気にするな、とは無理な提案だ。こんな手錠で繋がれて気にしない人間がいたら見てみたい、と心底呆れた。きっとそんなのは竜崎くらいなものだ。
「何を考えていたんですか?」
「・・・ん。竜崎にどんな夢だったかって聞かれて、思い出そうとしたんだけど・・・」
「忘れてしまったんですか」
「うん。断片的には思い出せるんだけれど、細かい部分があやふやで」
そう語る僕の顔を竜崎はじっと眺めていた。僕が嘘を吐いていないか確かめてでもいるのだろうか。・・・馬鹿馬鹿しい。こんなことで嘘を吐いてどうなるというんだ。それとも、僕が竜崎が云うところの“キラとしての記憶を取り戻した”とでも? それこそ馬鹿馬鹿しいことだった。僕は、キラなんかじゃない。
「・・・でも、いいよ。大事なことならそのうち思い出すかもしれないし。それに埋もれてしまったとしても、結局は僕の中にあるわけだしね」
そう云って笑ってみせると竜崎は、そうですね、とうつろな調子で云った。僕はそんな様子にすこし眉をひそめたけれど、すぐにやめた。竜崎はもうこの話に興味をうしなったんだろう。この男は興味のあるなしによって態度を判りやすく変える。
「ライトくん、眠らなくていいんですか?」
「ああ。竜崎は?」
「私はいいんです」
私は、というその言い方にちょっと気になった。どういう意味だ? 僕がそれを尋ねると、竜崎はしぶしぶと云った様子で口を開いた。
「夢見が、最近、すこし 悪くて」
「―――竜崎が?」
竜崎の言葉に僕はあまりにも吃驚して、思わず声を上げてしまった。しまった、と思うよりも早く竜崎は僕に不愉快そうな表情をつくってみせた。左手の親指の爪を噛む。
「ごめん。驚いたからつい。―――爪、噛むなよ。深爪するぞ」
僕があわてて謝ると、竜崎は「そんなに驚くようなことですか」と云った。都合のいいことに僕の後半の台詞だけは聞こえなかったようだ。相変わらずガリガリと歯で爪を砕いていた。
「いや、なんとなく、ね。たいした理由があるわけじゃないんだ。もし気に障ったなら謝る」
「別にいいです」
そう云いながらも、竜崎は尚も不機嫌そうだった。まるで子どもだ、と僕はあんまりにも呆れたので、くすくすと笑ってしまった。竜崎が、めずらしいとでも云いたげな様子で僕を見た。その珍獣めいた様子がおかしくて、僕はまた笑った。こんな風に笑うことはとても久しぶりな気がした。竜崎といると僕はたいてい苛々させられているから。
暫くしてやっとくすくす笑いの発作がおさまると、僕は竜崎に「どんな夢をみたの?」と尋ねた。竜崎は答えないかと思ったけれど、一瞬口ごもっただけで、存外あっさりと口を開いた。
―――・・・昔々の思い出のことです。私だけが覚えている、暗い、沼の淵の記憶。
―――沼の、淵?
―――ええ、この世の終わりと同じくらい暗く深い、冷たい泥の沼です。その淵に私たちはいたんです。それにはきっと綺麗な花が咲く。満開の美しい花が。それはとても孤高で美しく、まだこの世界に馴染めていない。だから、まだ、睡蓮が根付けるんです。今でも、きっと。
そう云って竜崎は例のどろりとした(それこそ底なし沼みたいな)目つきで僕を見た。・・・竜崎は何を云っているんだろう、と僕は思った。とても曖昧な話を彼はしている。竜崎の夢の話はとてもファジーで、竜崎自身何が云いたいのか掴めていないのじゃないかと思う。何か話したいことがあるのに、それが多すぎてごっちゃになってしまったとき、ひとはそんな風に支離滅裂に近い話し方をする。まるで、あんまりにもたくさんの色を使おうとして、パレットの上がカラフルな絵の具でごっちゃになって混ざってしまったかのように。
私たち、って誰のことなんだ、とか、睡蓮がどうしたんだ、とか尋ねたいことは色々あったけれど、結局何も尋ねなかった。訊かなくていいと思ったのだ。何故だかは判らないけれども。(むしろ訊いてはいけない、と思ったのかもしれなかった)(・・・ああ僕もひどく曖昧だ)
それでも竜崎がそんな輪郭のぼやけた話をしたとき、僕はなんだかひどい頭痛に襲われた。頭の奥に手を突っ込まれて掻きまわされるような、心臓を直に掴んで握られるような、そんな痛み。息が苦しい。浅い呼吸しか繰り返せずに、あえぐように酸素を求めた。頭のてっぺんからつま先までが痺れる。僕は、僕は何かを忘れている。そう思った。それは先の竜崎の言葉に揺り動かされ、頭の芯がぐらぐらと揺れるような錯覚を引き起こす。
どうしようもなく、何かを忘れているような気がした。すべてを知っているような気がするけれど、何も判らないようにも思う。頭が痛い。苦しい。途方もないような気持ちになって、泣きたくなった。竜崎が僕を呼ぶ。めずらしく焦ったような声。笑って平気だと答えようとしたけれど、できなかった。くるしいんだ。こんな焦燥を僕は知らない。“あのひと”が僕を呼ぶ。それともこの声は竜崎? 判らない。うつくしい睡蓮が僕に根付くと云ったのは、暗い沼の淵に立っていたのは。闇の中だ。すべての輪郭は曖昧にして僕を沼に沈める。ゆっくりと、僕は冷たい泥の中へ沈んでゆく。うつくしい花たちは僕の周りで淡くひかりを放つようにして咲き誇っていた。あなたには、きっと誰よりも大きく、うつくしい花が咲くと云ったのは誰? 僕を悲しそうな目で見つめたのは。声がする。遙か昔から僕を呼び続けているのだ。“あのひと”が苦々しい顔で僕を見る。暗い泥に沈まなければ。竜崎がどろりとした瞳で僕を見る。ライトくん、あなたは。
何もかもが闇の中に落ちてゆく。
すべては暗い泥の中へ。あとに残るのは、淡くかがやく、睡蓮たちだけ。
(僕の名を呼ぶのは、誰?)
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多分、ピュア月・・・のはず。竜崎にだいぶ苛立ってますが、ピュアです。
(それは最初はキラ月だった名残です・・・計画倒れ)
恩田陸の短編「睡蓮」オマージュですが、大したことはしていません。
というか仔月が書きたかっただけ・・・(笑)。
2005.02・13